さよならスプリンター

まずお詫びですが、前回書いた詩は(当然のことながら)パクリです。松本零士なら激怒しているところですね。すいません。
さだまさしの詩ですが、「Bye Bye Blue Bird」でも「Bye Bye Guiter」でもなく「療養所」という歌からのパクリです。タイトルと関係ないじゃん、というお叱りもいただきました。重ね重ねすいません。

と、お詫びはこれくらいにして....。

思えばこのスプリンターとも気がつけば13年の付き合いになった。家に来たときにすでに5歳だったので今はもう18歳。人間でいえば....何歳くらいになるんだろう?
もともと名義は父親だったんだが、父親も母親もそのうちほとんど車を運転しなくなり、弟は大学合格と同時に家を出てしまったので、ほとんど私ひとりが運転していた。北は北海道の旭川から南は館山の野島崎まで(←大したことはない)、東は銚子から(←これも大したことはない)西は木曾駒ケ岳の麓まで、どこに行くのも一緒だった。
仲間とわいわい言いながら地元を走り回った学生時代。通勤で毎日一人で乗り続けたパラサイト時代。そのうち助手席を指定席にしてくれる人が現れ、週末のたびに出かけたアパート暮らし時代。そしてある日ベビーシートが取り付けられて乗員が1人増え、家族の日常には欠かせない存在となっていた。
自分の運転が未熟なせいもあり車は生傷が絶えず、またしょっちゅう小さな故障は起こしていたが、幸い自分の仲間たち、そして大切な家族に怪我をさせることは一度もなかった*1
自分は決して走り屋ではないし、車にそんなに詳しいわけではない。いわゆる「カーマニア」には遠く及ばない存在だが、でもあの車は大好きだった。外見も内装も走りも乗り心地も、全部ひっくるめて大好きだった。高速料金所のカードをひったくって口にくわえ、右手で手回し窓を閉めながら4速マニュアルを操って必死で加速するのがとても好きだった。
今回いろいろな事情で手放すことになってしまい、買取業者に打診したがほとんどの回答は「廃車にするしかないです」とのこと。その中で1社だけ、「中古車」として引き取ってくれる業者があった。買取価格はマイナス査定で、金銭的には廃車にしたほうが安く上がったんだが、それでもその業者に買い取ってもらったのはだから車に対してのせめてもの恩返しの気持ちだ。
いろいろと書類を揃えて手続をして、引き取りは11月11日と決まった。1並びの大安の日。彼の新しい門出として精一杯の吉日を選んだつもりだ。その日が近づくにつれて愛おしさと寂しさは日に日に募っていった。
11月3日からの3連休は家族で外房に。彼の最後の長距離ドライブだ。抜けるような晴天の下で家族3人とスプリンターの記念写真を撮った。
自分の最後の運転は11月9日、子供を保育園に送ってそのまま職場へ。その帰り道が最後のドライブだ。いつもは家族に会うために一刻も早く家に着きたいと思っているが、この日は家に着くのが嫌だった。いつまでも乗り続けていたかった。こんなときに限って道はガラガラであっという間にマンションの駐車場へ。さだまさしの「夢一匁」がカーステレオから流れていた。老人が自分の来し方を振り返り、新たに生まれ出る命の健やかな羽ばたきを祈る名曲だ。家族の一員だったスプリンターが静かに去るにあたって、生まれ来たプー、そして後を託す新しい車の幸せを祈ってくれているようだった。
11月10日、妻がプーと近所のショッピングセンターに。これがスプリンターの家族の一員としての最後の仕事だ。最後まで家族を安全に送り届けてくれた。そして夜、車内の整理。チャイルドシートを外し、ワイドミラーを外し、トランクを空にして....。マットの下からずいぶん昔のレシートや高速の領収書がたくさん出てきた。なにもかもが懐かしかった。
駐車場と自室を3往復して荷物を整理し。からっぽになったスプリンターの運転席で少しの間だけ目を閉じてしばし思いに耽った。スプリンターは何も語ってくれなかった。最後にハンドルを優しく撫でてやり車を後にした。
11月11日。朝から雨。我々家族の涙雨の中、スプリンターは引き取られていった。家族3人で立ち会い、マンションの駐車場の出口から去っていくのを見送った。もう私が彼の姿を見ることもないだろう。そう思うといつまでも見送っていたかった。
私にとってどんなに大好きで大切な車でも、はたから見れば18年経って外見も傷だらけの中古車だ。もはや国内の中古車市場で引き取り手がつくとは思えない。ウラジオストックか東南アジアか、いずれにしても次は海外で走るんだろう。幸せな車生を全うしてくれることを心から祈りたい。
さようならスプリンター。幸せをありがとう。

*1:私自身はパンク修理のときにジャッキを引っ掛けて手のひらを切ったけど....